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第三話 疑う士郎
「ロン! 一発だから満貫!」
「チュンさーん。どんな手から勝負しちゃったのー?」
「いい手でしたよー。テンパイですし」
チュン手牌
二三四赤伍六七④⑤34577
「ああ、三色変化を待ちつつのタンピン系ダマ満貫か。これは6索放銃も仕方ないねー。ていうかもうリーチしちゃっても良かったんじゃないの?」
「チュンさんっていい手作りしてるけどチョイチョイ大物手に放銃しちゃってるよね」
「アハハ、あまり守備が上手くないんで」
「不思議だなー。いつもけっこういいポジションにいるのにね」
井之上士郎はそう言ってチュンの麻雀を疑っていた。
(これは本当に本気でやっているのだろうか)と。
というのも士郎はチュンの描いた漫画の熱心な読者であるため(あれだけ麻雀に精通した人物が果たしてこんなにも放銃するなんてあり得るのかな……?)という疑問があったのだ。
しかし、その疑問は頭の隅にありつつも、この時士郎はとくに追求することはしなかった。
◆◇◆◇
「では、私は失礼いたします。次は土曜日ですね。またよろしくお願いします」
「はい、ではまた次回。よろしくお願いします。ありがとうございました」
「チュンさんまたねー」
「はい、ではまた」
(ふう、疲れました。と、言ってる場合ではないですね。同人誌のマーケットに出す作品の締切りが近いんでした。今日は寝る前にできるだけ描き上げませんと、そろそろ間に合いません。事務所に連絡して、直帰させてもらって、夕飯を食べてシャワーを浴びたらあとは気絶するまで執筆です)
 
28.サイドストーリー1イノウエ順子短編集その1世界は君の思い通り 前編 おれは母を失ってから毎日のように母親の書いた小説を読んでいた。とくに好きなのは『イノウエ順子短編集』の中にある『世界は君の思い通り』という短い物語だ。この話は短い文であるが、快活な女子の明るさが伝わる、母らしい作品で、それを家政婦の紅中も好きだと言った時はなんだか親しみが湧いた。「また読むか……」◎世界は君の思い通り著:イノウエ順子 北山寧々子(きたやまねねこ)はおれの幼馴染みで、2つ年上のはずのおれはなぜかいつもネネコの言いなりになってる。 小学校の時くらいはまあ良かった。別に一緒にいることは不思議なことじゃない。ご近所さんなんだから毎日一緒に学校に行くのは当たり前だ。下校時刻は違うから帰りは別々だったが、朝は毎日一緒だった。 中学生になっても小学校と中学校が近いためほぼ同時に家を出る。中学は小学校の少し先だからおれは数分早く家を出るようにしたが、なぜかその時間に合わせてネネコはおれンちの前で待機してた。「てっちゃんおっはよ! じゃーいこか」とカラッとした笑顔を見せる。 おれも別にその笑顔が見れることを嬉しいとか、ドキドキするとかはまるでなくて当たり前のことが目の前にあるだけという認識で少しも微笑まずに「ああ、おはよう。じゃ、行くか」としか言わなかった。「ネーネー、てっちゃん。中学って楽しいー?」「ん……どうだろう。知らない人も多いし緊張するよ。つまらないとかはないけど、勉強は難しくなるし制服は首が痛いしであまり好きじゃねえな」 おれやネネコの小学校は小さい学校で中学にあがると隣の大きな小学校
27.第九話 ノーレート東風戦 次の土曜日。最近では紅中の井之上家での仕事は決まってきており、土曜日は溜まっている家事をして時間があったら麻雀を一回。日曜日は軽く掃除したら終わりで残りの時間は麻雀をする。そういう流れだった。「……よし! 終わりました。っと、今日は時間がなくなっちゃいましたね。麻雀は明日のお楽しみにしておきましょうか」「えー! ヤダヤダ。一回やろうよ!」「士郎。ワガママ言うな。延長料金は安くないんだぞ。麻雀やりたくて延長料金払いましたとかいうのはおかしいだろ」「確かに……でも、やりたいんだもん! 兄ちゃんだって麻雀したいだろ? ノーレートの東風戦でいいからさ!」「東風戦……ですか」(東風戦は正直、好きじゃないんですよね。楽しくないといいますか) そう、接待麻雀専門家の紅中にとって東風戦は楽しく打てない麻雀だ。なぜなら半荘戦なら東場は多少アガリもして差し込み用に点数を蓄える時期というのがあってもいいが東風戦だと後半戦しかないのと同じである。それはどういうことか。つまり、接待麻雀師としては遊べる局が1つもないということ。 素人は勘違いしがちだが東風戦は東1局東2局が前半戦というわけではない。東風戦には後半戦しかないという考え方が正解である。つまりスタート時点で既にクライマックスのような緊張感が必要になってくる。(とは言え、士郎さんがこんなにやりたがっているし、特別に今日は付き合うことにしましょうか)「わかりました。それではノーレート東風戦一回勝負をやりましょうか」「やったーー! ありがとう、チュンさん!」 そう言うと士郎は急いで準備をした。(東風戦でいつもの接待麻雀をするとつまらない
26.第八話 夫を立てる妻 カーー カーー 気付いたら日が暮れていた。(あれ?! もうこんな時間ですか!) 気づいたら紅中はほとんど丸一日部屋にこもってイノウエ順子の長編小説『サハラ』を読みふけっていた。ぐぅ~(お腹がすきましたぁ。喉も乾きましたし。……ずいぶん長い事頭を使った気がします。しかしこれはすごい。なんて面白い物語! まるで自分が対局してるような感覚になりますね。作中で対局が始まると一緒になって考えたくなってしまうのでなかなか先に進めません。私の描く漫画も体験型の麻雀漫画ではありますが、イノウエ順子さんのそれは次元が違いますね。さすがはプロの作家です。お腹は空きましたが、もうあと数ページで終わりなので読んでしまいますか)「……ふぅ、読了っと」(すごいものを読んでしまいました。やはり、イノウエ順子さんは評判通りの雀豪ですね。これで麻雀が弱いわけがない)「ご主人様は知らないのでしょうか……」(知らないのだとしたら、とんでもなく立派な『妻』だったのでは? つまり、自分の夫を立てることに徹底していた。おそらく、学生時代は本気でやっていたんでしょう。しかし、次第に奥さまは麻雀が上手になってきて、教えてくれた方より強くなったのではないでしょうか。そうなると教えてたほうは面白くない。自分の弟子だと思っていた子が自分より強くなってしまったなんてのはプライドが傷つくこと。そう考えたのではないか)「仕事のできる良い奥さまだったんでしょうね……出来すぎて家族が家事を覚えなかったのは問題あ
25.第七話 手加減 井之上士郎は母が生前獲ってきた麻雀大会準優勝の盾を眺めていた。「ねえ、兄ちゃん。お母さんって麻雀強かったっけ」「ん……おれたちとやる家族麻雀では勝ったとこ見たことないかもな。それが?」「いや、だって準優勝してるからさー。不思議だなーって」「そういうもんだろ。麻雀なんて」「それはそうだけど……」 たしかに、麻雀はそういうもの。という宏の言う事も一理あった。どんなトッププロと呼ばれる麻雀打ちでも勝ち続けるなどは不可能であり、それが麻雀である。 しかし、士郎はこうも思っていた。どんな打ち手であれ、負け続けるというのは不可能ではないだろうかと。勝ち続けることが不可能であると同時に負け続けることも不可能であるはずで。しかし、母の勝った所は見たことが無く、だが麻雀大会準優勝の盾が目の前にある。この不自然さに士郎は気付いたのだ。(やっぱり、なんか変だ) 士郎は母の麻雀が不自然な結果であったことを今になってやっと気づいた。当時小学生だった自分は母におそらく手加減されていたのだ。(僕の予想でしかないけど、多分お母さんは手を抜いてたんだな) ここまで考えが至った時に、とある直感が士郎にあった。それはチュンのことである。(まてよ、チュンさんももしかして……?) チュンは非常に高度な麻雀戦術を書く漫画家だ。その戦術は全てチュンのオリジナルであり、度肝を抜く新発想なのである。(あれを書いた作者が自分ら素人に負けるのは……これも不自然ではないだろうか?) まだ回数は少な
24.第六話 ギャル雀が家政婦派遣になるまで「『ギャル雀いそこ』か。懐かしいね」 ギャル雀とは2008年〜2012年頃に流行った雀荘の経営モデルである。具体的には本走スタッフに若い女性を採用するというもの。やってることはそれだけだが、麻雀というのは至近距離で4人集まり長時間同じゲームをやる行為である。そこに若い女性が参加すればどうなるか、説明する必要などないだろう。『いそこ』もその時期に流行り乗った雀荘であった。いそこは当時の上野周辺で一番流行った雀荘だったかもしれない。「ギャル雀ブームが下火になろうとも、いそこだけは売り上げをそれほど 落とすこともなく何年も黒字営業を続けたんだけどねえ」 しかし、巨大商業施設の建設計画を受けて2000万円で立ち退きを迫られ、あえなく閉店。「居抜きで入れる店舗があれば良かったんだけど、なかなかね……」 次に行くちょうどいい箱も結局見つからなかったのでこの際雀荘をやめて全く別の仕事を始めてみようかと思いついたのである。それが、家政婦派遣だったということだ。 『いそこ』という店名の由来はオーナーである『鳳聖子(おおとりせいこ)』の学生時代のあだ名から(索子の1。つまりイーソーは鳳凰の絵柄が彫られており『イソコ』と呼ぶ人もいる)で、鳳聖子はギャル雀をオープンさせるにあたり自分同様、麻雀関連の名を持つ同級生の東正美(あずままさみ)に声をかけてみた。牌仲間って事でなんか面白いかなっていうだけの理由であった。 すると不思議なことにその後募集したスタッフの名前で南西北白中が揃い、発以外の字牌がいつの間にか全種揃ったのである。 南は片岡南(かたおかみなみ)通称ミナミ 西は西城彩芽(さいじょうあやめ)通称ニシ 北は堀北雅(ほりきたみやび)通称キタさん 白は白田雪子(しろたゆきこ)通称シロ子 そして、中は真中紅子(まなかべにこ)通称ホンチュン である。 不思議な偶然だった。だが、いくらなんでも発は揃わない。発のつく名前なんか聞いたことがないから諦めていた。 そんな時にふと紅中が「そういえば私、同級生に発の子がいますよ。中学生の頃からの友達で『いそこ』にも遊びに来たことある子です」と言い声をかけたのがリュウハだった。 その時はもう雀荘いそこは閉店の準備をしていてアズマ家政婦派遣事務所をオープンさせるのでオープニングス
23.第伍話 麻雀視力の差 相手の待ちを読み、当たり牌を捨てたらアガリ点の半分がもらえるなんてルールは手牌読みこそが持ち味の紅中にはもってこいのルールだった。 手牌というのは合理的に作るものである以上、そのために捨てた牌からはそれを捨てた理由が見える。 例えば、1巡目に9索を捨てたとする。そして2巡目がオタ風の西だった場合。これは牌の使い勝手で考えると切り順が逆である。 なぜ、縦に重ねなければ役立つことのない西を順子にも使える9索より後で切ったのか。それはつまり9索をケアする牌が手牌にあるから西が残されたと考えるのが自然だ。要するに、69西からの打9索。これしかない。 たった2巡で見えないはずの6索の存在が明らかになる。これが読みだ。 また、逆に。西→9という不自然ではない切り順である場合はどうなのか。その場合は手牌に6索が存在しないことが判明する。つまり、どうやってもヒントが出る。犯罪捜査のプロファイリングと同じだ。どんなに隠そう隠そうとしても必ずそこには『人の心』が証拠品として残されてしまう。完全無欠なノーヒントなど紅中の前では存在しないのだ。 なので、これらの目には見えない部分の情報を組み合わせることで紅中は誰がどういった手を作っているか把握している。差し込みすることで加点するゲームとなれば紅中ほど強い者はいるわけがなかった。打六「ロン」打9「ロン」打8「ロン」打中「……ロン」 あっという間にトップ逆転。紅中には常人に見えていないものが見えているようである。「う、うますぎる。チ